本棚

ブスの瞳に恋してる~ONARAが響きわたるハッピーライフ~

昨日で外働きは完全終了。
あまりの解放感から、帰りは目黒にあるアンティークビーズのお店に行ったり、渋谷センター街のブックオフへ行ったり。

昼ごはんも食べずに、ふと気づけば15時過ぎ。
家についてから、遅めの昼食とおやつを食べる。

その後、仕事をするつもりだったのに、「一日くらいいいよね・・・。今日くらいはいいよね・・・」と自分に言い訳しつつ、まだ読んでいない本の山を少し整理してみたりする。

本の山の一番下にあったのは、『ブスの瞳に恋してる』。
ふーん…と思って、ちょっと読み始めたらけっこう面白くてそのまま読み進める。
交際期間0日で結婚した放送作家と女芸人の笑える結婚生活が綴られているのだけど、その中身は、おならネタ、ウン○ネタが満載で、人によっては読んでて不快になるかもしれない。
しかし、わたしはこういうネタが蔓延する下品な家庭で育ったせいか、とても楽しく読めてしまった。
鈴木おさむいわく、世の中は人前でおならをできる人と、そうでない人の2種類に分けられる。おならが響き渡る家庭をもった鈴木おさむであるが、しかし意外なことに彼の父親は「おならをしない派」なのだとか。おならをしない派の家庭に育った著者は、よその家に行ったとき、「3、2、1、サンダーバード A GO!」と言って放屁するおじさんの家庭に憧れすら抱いたらしい。わかるような、わからんような憧れだ。

本当に、この本の中で綴られているのは執拗なまでの下ネタ話なのだけど、それはおならが響きわたらぬ家庭で育った著者の、おならに対する憧憬の念が込められているようにも思う。
面白いなあ、と思うのは、鈴木おさむの場合、憧れの対象が不動産会社や生命保険会社のテレビCMに出てくるような「家庭」ではなく、リアルな生活臭のある「家庭」である、ということだ。現実をまるごと引き受けて、しかもそれを楽しんで生きていこうという姿勢は天晴れじゃないですか。
この本は「家庭」というものの暗黒の一面をリアルに楽しく活写していると言える気がする。

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フランス・ブーム再燃

12日(土)、13日(日)は曳島の古本市(@ラブガーデンさん)に便乗出店させていただきました。
出店者はわりと顔見知りの方が多く、店内にはソファもあるし、何だかまったりとお喋りしているうちにあっという間に時間が過ぎてしまいました。
今回は「どすこい女子部」の箱にご一緒させていただき、栞のみの参加。お買い上げくださった皆さま、本当にありがとうございましたm(_ _)m
そして古本市を企画してくださった実行委員の方々、ラブガーデンのオーナー様にも感謝でございますm(_ _)m

どの箱もとても面白そうな本がいっぱいで、あれも、これも、と欲しくなってしまうけど、とりあえずは最終日の夕方まで買い物は控えておく。(でも、どんぐり書房さんで『まぼろし小学校』を見つけたときは、思わず買ってしまった。だって、「フルーツマンボ」が写真入りで載っているんだもの・・・!)

何度も箱をのぞきに行き、本当に必要な本だけ・・・と絞りに絞って買ったのは、
・『東京ホリデイ』
・『4時のおやつ』
・『船旅デート』
・『おいしい暮らしのめっけもん』
・『Pooka』(特集:おいしい絵本)
・『marie Claire Maison』
・『にほんご』(カフェ・フルークさんの古本市で買い逃したのを、どんぐりさんが持ってきてくれました。嬉しい♪)

来年の夏に通訳ガイドの資格試験を受ける予定なので、最近は旅関連の本と、グルメ紹介みたいな本を集めています。(試験に直接関係しているわけではないのですが・・・まあ、まあ)

あと、甘夏書店さんの種袋を買ったら、『ふすま』という白い文庫本が入っていて、伝統文化関連の本も集めたい私には、かなり嬉しい出会いです。写真もたくさん載っていて、小さいながらも本格的な感じ♪ こんな風にして本と出会うのも面白いなあ、と思いました。

昨日は近所の公園で餅つきも行われていて、つきたてのお餅を食べたり、謎の銘菓「シベリア」を食べたり、噂のコッペパンを食べたり、焼き鳥を食べたり、、、と、食事らしい食事をしていないわりには、1日中何か食べていました。「また食べてるの!?」と駄々猫さんからつっこまれるほどに・・・。

今回の古本市では、「旅のつぶ」さんがパリで撮影した写真のポストカードを出品されていたり、「ゴロピカ堂」さんもパリで撮った写真のアルバムを持ってきていたりで、わたしのおフランス・ブームがまたもや再燃。「どすこい女子部」で買った『Pooka』には、フランス語の子ども向け料理本が紹介されていたので、後でネットで調べて買おうと思ったのですが、残念ながら日本のアマゾンでは取り扱いがないものばかり・・・。フランスのアマゾンも勢いあまって覗いてしまいましたが、送料がけっこうお高くて。。。あの送料を払うなら、パリに行っちゃおうかな~、という気になっている今日この頃です。(いや、送料の方が飛行機に乗るよりもはるかに安いのだが・・・)
英語の本は簡単に手に入る昨今ですが、英語以外の外国語はまだそうでもないのですね・・・。
「とかげ書林」さんの箱では『marie Claire Maison』をゲット。ふと気づけば、今回の古本市はフランス・ブーム再燃のきっかけとなっていました。

フランス語は大学時代、第2外国語として2年間勉強したハズですが、何も覚えておりませぬ。2年くらい前に、フランス語熱にとりつかれてちょっとだけ勉強しましたが、根気がないので持続せず。でも、英語ってフランス語起源の単語がすごく多いので、何となく意味が推測できることもあり、読めないながらも『marie Claire Maison』をパラパラとめくるのは楽しいものです。読めないからこそ、楽しめるのです。
たま~に、意味のわかる言葉のまとまりを見つけると、「おぉぉぉ~!」と感動のビッグウェーブがやってきて興奮します。
わたしの脳ミソは、意味のわからぬ、しかし文字であることだけは認識できるものを見ると、なぜだかとてもワクワクします。意味がわからぬくせして、そこに「意味」が存在していることを、どうしてわたしはわかるのだろう・・・と、いつも不思議に思うのです。。。

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本棚の整理

この1年半くらいの間に本がすごい勢いで増えている。
もはや本棚には収まりきらず、机の上も、床の上も、本の山、山、山。
これではイケナイ、と一念発起して、本の整理をすることにした。

せっかく整理するなら、見たい本を見たいときにさっと取り出せるように、使い勝手よく整理したいものデス。そこで今回の本の整理は計画的に、システマティックにやりましょう、ということになりました。

まずは本の分類の仕方を紙に書き出してみる。ハードカヴァーと文庫・新書は分けるべきか・・・。それともひたすらジャンル別、作家別などに分けるべきか・・・。洋書と和書は分けるべきだろうか・・・。
考え始めると、色々な本の並べ方があるものだなあ、と今さらながらに気づくのだった。そういえば、図書館や古本屋さんにはだいたい文庫・新書コーナーがあるけど、ハードカヴァーの本の中に文庫や新書が紛れていることもある。ジャンルで分けるなら、本のサイズにこだわるべきではないかしら、と迷う。

結局、限られたスペースを有効活用するために、洋書と文庫・新書は別扱いにした。
次はジャンル分け。ここ1年で急激に増えた本というのは、英語関連のものが多い。その中で、さらに英語史に関するもの、翻訳関係、英文法、ライティング、リスニング、受験参考書、等々に下位分類してみる。
次に、以前本棚の整理をしたときにつくった詩のコーナーを整理しなおす。詩は気が向くと取り出して読むのだけど、取り出された本が元の場所に戻ることはほとんどないのでいつの間にか本があちこちにいってしまっていたのだ。ついでに伊藤比呂美コーナーを開設。小説もエッセイもすべてここに集める。・・・本当に整理されているのだろうか。
伊藤比呂美コーナーの横に、ふと岸本佐知子コーナーをつくってみたくなる。ここは詩のコーナーだったはずなのに。・・・本当に整理されているのだろうか。
本を整理していくうちに、今回、新しくできたのが世界史コーナーだ。といっても全部で8冊しかない。でも、その8冊の本のどれも読破していないことに気づいた。読まなきゃ、と思ってるノ。必要だと思ってるノ。本当なノ。・・・そろそろ読むか。
美術コーナーと言葉関連コーナーも新たに開設された。
ふぅ。

英語関連コーナーの下位分類がスペースの関係で机の前と右の本棚、左の本棚へと泣き別れしてしまっているけど、この狭い部屋の中で完璧を目指すことがアホらしくも思えるので、まあヨシとする。

いつまでこの状態がキープできるかわからないけど、ひとまずスッキリしたのでした。

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翻訳っていうのはね…

 去年の暮れ、無性に伊藤比呂美の文章が読みたくなり、地元図書館で適当な本を探していたら、たまたま樋口一葉の『にごりえ』の現代語訳に行き当たった。
 伊藤比呂美以外にも訳者は3人いて、島田雅彦、多和田葉子、角田光代という顔ぶれ。
 「翻訳」といってもこれは古文から現代文への翻訳。ははあん、こういうのもありだよなあ、ということで読んでみた。
 訳文は、四者四様。同一人物が書いた原文とは思えないくらいに違う仕上がりだ。わたしは高校時代、勉強をサボっていたから古文の知識は皆無に近いのだけど、それでも何となくそれぞれの訳文に感じ入るところはある。以下、古文のわからぬアホの戯言。
 この中で一番「正統派」のような気がしたのは多和田葉子の訳文だ。現代語訳になっているけど、現代の話ではないという臭いもして、訳文も一番品がある感じがした。
 伊藤比呂美の訳は、多和田葉子の訳文とは全然違う文体だけど、天才的なセンスで現代口語訳に生まれ変わっており、人間臭さがぷんぷんと立ち上ってくるところがすごいなあと思う。この人はホントに言葉づかいの天才だ。
 文庫の終わりにはそれぞれの訳者による後書きもついているが、ここでも伊藤比呂美は感性の人で、多和田葉子は「正統派」な人であるのが面白い。
 多和田葉子は後書きの中で、翻訳作業を通して感じた迷いや、諦め、うしろめたさに言及しているが、だからといって翻訳を否定するのではなく、逆にそうした感情の中に敢えて踏み込んでいくことで「未知の日本語」の可能性が開けてくるのではないか、として一葉の現代語訳という作業を多くの人に勧めている。
 翻訳というのは常に罪悪感のつきまとう作業であるから、共感するところが大いにあり、だけど翻訳なんて意味がないと切り捨てずに、むしろ一葉の翻訳を多くの人に勧めると書いてあるのは、なんだか勇気をもらった気分。翻訳が切り開く世界は確かにあるんだぞう。なんてね。

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『わかりやすい英語冠詞講義』

 今年はちょっとブログの内容を変えたいなあ、とお正月にも書いてましたが、けっこう本気だったりします。
 とりあえず、読書の記録を残しておくのが当面の目標です。いつまで続くかわからないけど、とりあえず1月くらいはピシッとしたいものです。

 というわけで、本日読了したのは、『わかりやすい英語冠詞講義』(大修館書店)。
 具体的な例文が豊富で確かにわかりやすかったけど、説明の抽象度はわたしにとっては高かった。でも、これは冠詞というものが指し示す内容がそもそも抽象的な範疇にあるのだからしょうがないのかもしれない。本文を読んでいて、頭がパッパラパ~な状態に陥ると、すかさず例文が提示されるのが嬉しかった。例文に救われてアホなわたしでも読み通すことができた。
 認知言語学的な見地から書かれているのも、個人的にはツボでありました。結局、言葉というのは人が使うものなんだから、その「人」が世界をどのように認識しているかということと、言葉の使い方とが切っても切れない関係にあるのは当然のことだと思う。
 数えられる名詞とか、数えられない名詞とか学校で教わったけど、本当のところ、何もわからなかった。わたしにとっては、紙もパンも数えられるものでしかなかった。なぜそれを数えられるものとして分類するのか、あるいはしないのか。知りたかったのはそういう心のありかただった。
 本書のように言葉の使い手の心理的な部分を参照しながら説明してくれると、ノンネイティヴには予測もつかない、話し手の心の動きが垣間見えて面白い。この本を読んだからといって、見違えるように冠詞の間違いがない英文を書けるようになるわけではないけど、少なくとも英文を読むときに、「冠詞を読もう」という心の準備はできるかもしれない。
 巻末の参考文献も今後本を選ぶときの役に立ちそう。早く池上嘉彦の本を読まねば、という気にもさせていただきました。

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ポテトスープが大好きな猫

 お正月、といっても特にやることもなく、窓外を見れば川の横の遊歩道を人がまばらに歩いてゆく。空は水色、空気はひえひえ、こんな中を散歩するのも悪くないかも、ってなわけででコートをはおり、毛糸の帽子をかぶって表へ出る。
 結局たどりついたのは駅前の本屋。まだお正月だし、営業してないかなあ、と思いつつ行ってみたら、なんとやってるではありませんか。ひえー。
 目当ての本を見つけてレジに並ぼうとしたら、漫画本を大人買いする少年に先をこされ、レジにどかんと置かれた漫画のタワーを目にしてしたら、後ろに並ぶ気がうせた。店員さんが二人がかりで必死に漫画本をビニール袋から取り出す音を背中で聞きつつ、レジの向かいに平積みされている文庫本の表紙に目を走らせていたら、
 『ポテトスープが大好きな猫』
という絵本の文庫版を発見。
 タイトルに惹かれ、そして訳者が村上春樹だったので、なんとなく手にとってみる。
 ほんわかした温かみのある絵で、だけど猫もおじいさんも変にクールで淡々としたところがあって、けっこう楽しめました。二人(猫とじいさん)の距離感がいい感じ。
 最後に村上春樹のあとがきを読む。
 翻訳に反映できなかったディテイルを説明します、とのことで、原文についても少しは触れていたけど、それよりも絵の解説に力を入れているように思えた。おじいさんがかぶっている野球帽はどこそこのチームのものである、とか。
 はあ~、と思わずため息です。絵本というのは当然のことながら絵も読まねばならず、しかし、知らない英語の固有名詞をネットで調べるのとはわけがちがって、野球帽の柄なんてそれが実在するものだということを知らなきゃ見過ごしてしまうだろう。
 あああ、正月早々、無知の知でした。

 帰り道。空を見上げると、指でこすったら消えちゃいそうな、小さな白い半月がうっすらと頭上にあった。

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シズコさん

ようやく仕事に目処が立ち、心にも、時間にも、余裕がでてきました。

んなわけで、昨日は読書。

佐野洋子著『シズコさん』。

母親との葛藤を、著者の子ども時代から、母親が亡くなるまでの長い年月を振り返りながら綴ったエッセイです。

ずーっと仲の悪かった母と娘。和解したのは、母が呆けて老人ホームに入れられ、数年経ってからでした。

呆けた母親の話がたくさんでてくるけど、この本を書いている著者自身も、70歳で物忘れが急速に進んでいると自ら最後に書いていた。そのせいなのか、この本はぐるぐると同じところを廻るような、しかし、回転軸は少しずつ、少しずつ、ずれていっているような、そんな印象を受けました。

全部で24章ありますが、話は時系列に並べられているわけではなく、そのとき、そのとき、著者の頭の中に浮かんだ家族の思い出を吐き出すように綴り、話は過去と現在を行ったり来たり。読んでいるうちに、いったいいつの話なのか、なぜこの順番に話が進むのか、よくわからなくなってきて、おまけに同じエピソードが重複して出てくることも度々だ。著者の錯綜する記憶に、読者も共に翻弄されてゆく。しかし、その混沌とした「語り」が、老人ホームのベッドの中で母娘が和解するシーンに達したとき、今まで辿ってきたぐにゃぐにゃの道が、それでも確かに「道」であったことに気づいた。

ここで、著者も読者も浄化されるのでした。

著者は、母親を好きになれないことをずっと後ろめたく思い続け、そして「神様にゆるされるより、自分にゆるされる方がずっと難しい事だった」と書いています。この人は、自分で自分をごまかさないがゆえに、本当に苦しい思いをし続けてきたのだろうなあ、と思いました。正直に生きるというのは、苦しいことです。

晩年の、呆けてしまった母親の言葉をノートに書きとめ、そのトンチンカンな言葉に、しかし意味を見出し、ゾッとしたり、ハッとしたり。著者ならではの感受性で、すっかり呆けた母親と、動物的ともいえるコミュニケーションをとっていたようです。

この本の味わいをさらに深めているのは、本書のあちこちに散りばめられた呆けた母親のセリフではないでしょうか。ときに道化のように、ときに無垢な少女のようにも思える言葉の数々を、著者は両の手で美しい羽虫を捕らえるように、「 」の中にハッシと捕まえるのです。「 」の中で、コトバが踊り跳ねています。

現実から噴き出した言葉の威力はスゴイのでした。

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左川ちか

昨夜、ネットサーフィンするうちに、左川ちかの詩を扱うサイトを発見。『左川ちか全詩集』は現在入手不可能なのは言わずもがな、発行部数自体が少なかったので、これを有する図書館も希少でござる。

左川ちかは天才詩人であります。日本のエミリー・ディキンソンと言ってもいいくらいです。こんなに無名であることは絶対におかしいのです。・・・と思うのは、やはり私だけではなかったみたいで、ネットで「左川ちか」を検索すると、彼女の業績を讃えるサイトが、わずかではありますが、やはりあるのですね。

↓このサイトでは彼女の詩がたくさん読めます。興味のある方はぜひご覧になってください。

http://soredemo.org/archives_sagawa1.html

昨夜はこのサイトを見つけて狂喜し、パソコンを枕元に置いて布団の中に入ってからもずっと見てました。

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