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2009年1月

ブックダイバーで、くんくんくんくん。

 突然ですが、ブログのタイトルを変えました。
 最近、行ってみたい場所が次からつぎに見つかります。温泉を掘り当てたような気分です。こん、こん、とあとからあとから自然に湧き出てくるみたい。こりゃあ、当分止まらんなぁ、というわけでブログのタイトルもこんなことになってしまいました。

 とりあえず、古本屋さんとその近辺の食べ物屋さんを中心に、何か良いネタがあれば書きとめておこうと思います。

 記念すべき第一回目は、神保町の「ブックダイバー」。
 少し陽が落ちた頃にたどり着く。店内には白いソファがでんと置いてあり、お茶を自由に飲めるようになっている! 店主の心づかいがいいですねぇ。新参者ゆえ、お茶は何となく遠慮してしまいましたが・・・。ひと通り棚を見終わったら、面接の失敗やらなんやらがじわじわと襲ってきたのか、力尽きてしばしソファの中に埋まる。
 しばらくぼーっと目の前の本棚を見つめていると、なんかとても懐かしい臭いがすることに気づいた。
 なんでだろう? 本当に似ているなあ、と思ってよく考えてみたら、そこもここも、本がたくさんあることに気づいた。でも、こんな臭いのする古本屋は初めてだ・・・。座っているからだろうか? なんだろう、よくわからん。
 古びた本と、人間と、髪の毛(?)、が混じったような臭い。くんくんくんくん。

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薔薇と孤独とビッグ・バン!

 気が向いたときに読むブログがいくつかある。頻度はともかくとして、定期的にチェックするものは「お気に入り」に入っている。整理整頓が嫌いだから、「お気に入り」の中はぐちゃぐちゃのカオスちゃんだった。
 しかし、この混沌とした「お気に入り」の中のいくつかが「オグラのヒミツ」を読んでいたら、一本の線になった。!。
 そして世界はじわじわと拡張している。

 ちなみに「薔薇と孤独とビッグ・バン!」はYouTubeで視聴できます♪

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翻訳っていうのはね…

 去年の暮れ、無性に伊藤比呂美の文章が読みたくなり、地元図書館で適当な本を探していたら、たまたま樋口一葉の『にごりえ』の現代語訳に行き当たった。
 伊藤比呂美以外にも訳者は3人いて、島田雅彦、多和田葉子、角田光代という顔ぶれ。
 「翻訳」といってもこれは古文から現代文への翻訳。ははあん、こういうのもありだよなあ、ということで読んでみた。
 訳文は、四者四様。同一人物が書いた原文とは思えないくらいに違う仕上がりだ。わたしは高校時代、勉強をサボっていたから古文の知識は皆無に近いのだけど、それでも何となくそれぞれの訳文に感じ入るところはある。以下、古文のわからぬアホの戯言。
 この中で一番「正統派」のような気がしたのは多和田葉子の訳文だ。現代語訳になっているけど、現代の話ではないという臭いもして、訳文も一番品がある感じがした。
 伊藤比呂美の訳は、多和田葉子の訳文とは全然違う文体だけど、天才的なセンスで現代口語訳に生まれ変わっており、人間臭さがぷんぷんと立ち上ってくるところがすごいなあと思う。この人はホントに言葉づかいの天才だ。
 文庫の終わりにはそれぞれの訳者による後書きもついているが、ここでも伊藤比呂美は感性の人で、多和田葉子は「正統派」な人であるのが面白い。
 多和田葉子は後書きの中で、翻訳作業を通して感じた迷いや、諦め、うしろめたさに言及しているが、だからといって翻訳を否定するのではなく、逆にそうした感情の中に敢えて踏み込んでいくことで「未知の日本語」の可能性が開けてくるのではないか、として一葉の現代語訳という作業を多くの人に勧めている。
 翻訳というのは常に罪悪感のつきまとう作業であるから、共感するところが大いにあり、だけど翻訳なんて意味がないと切り捨てずに、むしろ一葉の翻訳を多くの人に勧めると書いてあるのは、なんだか勇気をもらった気分。翻訳が切り開く世界は確かにあるんだぞう。なんてね。

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わ、め、ぞ!

 風の冷たい一日でした。
 しかし寒風にも負けず、行ってきました、「わめぞ外市」。

 まずは古書往来座の近くのカレー屋さんで腹ごしらえ。メニューが多すぎて目移りしてしまうけど、とりあえず「大人気メニュー」のベーコンエッグカレーなるものを注文する。
 「お待たせしました」と、目の前に置かれたカレーは今までに見たことのない盛り付け方。ご飯が白いお皿の縁まで平に敷きつめられ、ど真ん中にベーコンエッグカレーがちんまりとのっている。そしてそのお皿とは別に、ベーコンエッグカレーのルーが出てくる。
 「カレー」、と聞いて思い浮かべる定番の野菜がほとんど入っておらず、しかし、キャベツもベーコンもタマゴもカレーによく合うのでした。具をとびっきりアレンジした家庭のカレーみたいでグ~♪
 店を出るときに、レジでピカピカ光る赤い包み紙のキャンディをもらう。口に入れたらコーヒー味。食後のコーヒー飲んでるみたい。

 さて、わめぞ外市である。寒風が吹くなか、店の外を取り囲む古書や雑貨の棚を熱心にのぞきこむ人がけっこういるではないの。とりあえず端から順番に見ることにしたが、あまりにも寒くて最初のうちは、あ~、あ~、と適当に流していた。しかし、う、別役実の「寂しいおさかな」発見、すかさずゲット。あ、「短歌の友人」。しかも美本、誰にも渡さないぜ! …ってな具合に、いつしか他のお客さんに混じってギラギラと隅から隅まで物色していた。寒さも忘れるほどの品揃え。期待以上です。濃い~時間を過ごせました。
 気になる高円寺の雑貨屋「ハチマクラ」のブースでは、ドイツ製の万年筆を発見。緑のボディが美しい。形もゴツすぎず良い感じだ。しかも945円! 某ブランドの安物万年筆よりもさらにお安く、デザインもこっちの方がいい。試し書きができなかったけど、945円ならまあ、いいか、と購入。家に帰ってインクを挿してみたら、書き味もまずまず。良い買い物でした。

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軍隊と戦争の言葉~「M*A*S*H」~

 冬休みに入ってからDVDで「M*A*S*H」のファーストシーズンを見続けていた。
 ずいぶん古いテレビドラマだ。(1972年放映開始)なにゆえ今さらM*A*S*H? という感じだけど、ずっと前にBobbie Ann Masonの “In Country” という小説を読んでいたら、作中に何度もこのテレビドラマのことが出てくるので何となく気になっていたのだ。
 それと、去年の終わりにやっていた翻訳の仕事が関係しているのかもしれない。訳していたのが室町時代の歴史上の人物に関することで、つまりは戦の話ばかり。京都から追放され、兵を挙げ、戦って京都奪回、しばらくするとまた戦があり、負けて、流罪。そこで兵を挙げ、京都奪回。そしてまた戦…。なんだかバカみたいだけど、本当にこのパターンのくりかえしなのだ。そのサイクルから逃れたいとは思わなんだのか? と問いたくなる。わたしが室町時代の武士だったら、たぶん1~2年戦ってみて、出家しちゃうだろうなあ、などと妄想してしまう。
 わたしは戦争ものの小説や映画が苦手で、そういう題材の作品はできる限り避けてきたものだから、こういうことを記述するための表現のストックが全くなく、いざ翻訳という段になったら途方に暮れてしまった。
 しょうがないので戦にまつわる言葉を収集すべく、オンライン上の百科事典や図書館の本などを利用して言葉を拾い集めていった。その結果、exile, banish, drive ~ out, flee, escape, raise an army, reconciliationなどなど、書き出すとキリがないのでやめるけど、今まで日常的に使ったことのないような言葉を本気で使うハメになり、そういう言葉を使ってみることで、なぜだか戦争が少し身近になった気がしたのは我ながら不思議である。
 偏った読書を猛省し、今後はNew York Timesの1面にある記事くらいは読ませていただきます、と誓った2009年元旦でもありました。
 今はガザのことが色々と話題になっているけど、そういう記事を読んでいても、ああ、この表現、室町時代のあの事件に使えそうとか、ちょっと不純な視点で読んおり、そして気づかされるのは、今も昔も人のやっていることは大して変わらないのだな、ということだ。
 
 そんなわけで、自分の中にないボキャブラリーを収集するつもりで見始めたM*A*S*Hだったのだけど、これが予想以上に面白かった。
 映画版M*A*S*Hの方を先に見ていたので、最初は主人公のホークアイもホットリップスも、なんかちょっと違う気がしていたけど、見続けていると不思議なもので、アラン・アルダ演じるホークアイもステキね、などと思うようになってしまう単純なワタシ。ただ、映画よりもテレビの方が、ホークアイが幼くて考えが青い感じがした。
 ちなみに、MASHというのは、Mobil Army Surgical Hospitalの略で、移動野戦外科病院のこと。背景にあるのは朝鮮戦争だ。ときどき、Tokyoがオアシスのような場所として舞台になっており東京都民のわたしとしては不思議な感じがする。この点についてはいつかまた何か書ければいいな、と思う。
 
 シットコムというと、フルハウスやフレンズなどがすぐに思い浮かぶけど、戦時中の野戦病院を舞台にコメディをつくるというのは、アッパレなことだ。ウィキペディアによると、M*A*S*Hは全部で11シーズンまで続き、中盤からはちょっとシリアスな話が多くなっていくらしい。えー、という感じ。ちなみに、M*A*S*HのDVDでは、シットコム特有のあの「笑い声」を消して見るというオプションがついている。これまた、えー、という感じ。やっぱりシットコムはあの誰のものだかわからない笑い声が混じっている方がいいと思うんだけどなあ。

 「M*A*S*H」も見終わっちゃったし、今度は『キャッチ=22』でも読んでみるか。

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『わかりやすい英語冠詞講義』

 今年はちょっとブログの内容を変えたいなあ、とお正月にも書いてましたが、けっこう本気だったりします。
 とりあえず、読書の記録を残しておくのが当面の目標です。いつまで続くかわからないけど、とりあえず1月くらいはピシッとしたいものです。

 というわけで、本日読了したのは、『わかりやすい英語冠詞講義』(大修館書店)。
 具体的な例文が豊富で確かにわかりやすかったけど、説明の抽象度はわたしにとっては高かった。でも、これは冠詞というものが指し示す内容がそもそも抽象的な範疇にあるのだからしょうがないのかもしれない。本文を読んでいて、頭がパッパラパ~な状態に陥ると、すかさず例文が提示されるのが嬉しかった。例文に救われてアホなわたしでも読み通すことができた。
 認知言語学的な見地から書かれているのも、個人的にはツボでありました。結局、言葉というのは人が使うものなんだから、その「人」が世界をどのように認識しているかということと、言葉の使い方とが切っても切れない関係にあるのは当然のことだと思う。
 数えられる名詞とか、数えられない名詞とか学校で教わったけど、本当のところ、何もわからなかった。わたしにとっては、紙もパンも数えられるものでしかなかった。なぜそれを数えられるものとして分類するのか、あるいはしないのか。知りたかったのはそういう心のありかただった。
 本書のように言葉の使い手の心理的な部分を参照しながら説明してくれると、ノンネイティヴには予測もつかない、話し手の心の動きが垣間見えて面白い。この本を読んだからといって、見違えるように冠詞の間違いがない英文を書けるようになるわけではないけど、少なくとも英文を読むときに、「冠詞を読もう」という心の準備はできるかもしれない。
 巻末の参考文献も今後本を選ぶときの役に立ちそう。早く池上嘉彦の本を読まねば、という気にもさせていただきました。

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これが都民の新年だか?

 昨日は何年かぶりに後楽園で下車。東京ドームとか、遊園地とか、いつの間にやらずいぶん変わったもんだ。
 お目当ては安齋肇の初詣イベント。お年玉スタンプラリーをやるには、好きな乗り物に2つ乗ってスタンプをもらうべし、とのこと。どれにする、どれにする? 友人と相談して、「舞姫」なるちょっとマイルドなジェットコースターを選ぶ。しかしぱっと見にはマイルドなこのコースター、乗ってみたら、あらあら、意外と、あ、ちょっと…、あ~、ヨダレが出そう。ぐるんぐるん、予測のつかない回転にびっくらこいたさ。「舞姫」から降りると、足もとが、キャハハ、と笑ってる。
 2つ目に乗ったのは遊園地の正統、観覧車。中には、なんとBGMを選曲できる小型CD(?)プレーヤーのようなものが装備されており、観覧車の進化に驚く。女子高生のようにキャアキャアはしゃいで、写真撮ったりして、若返った気分でした。
 スタンプも無事集め終わって、ゴールのハンコも押してもらい、いよいよ抽選会! ガランガランとはりきって廻すも、カーン、と冷たくトレーを打ったのは黒玉2つ。でもシールもらえたし、ラヴみくじはFuture大吉だったし、お昼に食べたカレーはなかなかおいしく、デザートのわらびもちとくるみのタルトも感激もの。ホントに楽しい1日だった。
 帰りにお土産の「東京ドームクッキー」を買う。…あたし、本当に都民だろうか? そんな疑問が脳裏をよぎる1日でもあった。

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ポテトスープが大好きな猫

 お正月、といっても特にやることもなく、窓外を見れば川の横の遊歩道を人がまばらに歩いてゆく。空は水色、空気はひえひえ、こんな中を散歩するのも悪くないかも、ってなわけででコートをはおり、毛糸の帽子をかぶって表へ出る。
 結局たどりついたのは駅前の本屋。まだお正月だし、営業してないかなあ、と思いつつ行ってみたら、なんとやってるではありませんか。ひえー。
 目当ての本を見つけてレジに並ぼうとしたら、漫画本を大人買いする少年に先をこされ、レジにどかんと置かれた漫画のタワーを目にしてしたら、後ろに並ぶ気がうせた。店員さんが二人がかりで必死に漫画本をビニール袋から取り出す音を背中で聞きつつ、レジの向かいに平積みされている文庫本の表紙に目を走らせていたら、
 『ポテトスープが大好きな猫』
という絵本の文庫版を発見。
 タイトルに惹かれ、そして訳者が村上春樹だったので、なんとなく手にとってみる。
 ほんわかした温かみのある絵で、だけど猫もおじいさんも変にクールで淡々としたところがあって、けっこう楽しめました。二人(猫とじいさん)の距離感がいい感じ。
 最後に村上春樹のあとがきを読む。
 翻訳に反映できなかったディテイルを説明します、とのことで、原文についても少しは触れていたけど、それよりも絵の解説に力を入れているように思えた。おじいさんがかぶっている野球帽はどこそこのチームのものである、とか。
 はあ~、と思わずため息です。絵本というのは当然のことながら絵も読まねばならず、しかし、知らない英語の固有名詞をネットで調べるのとはわけがちがって、野球帽の柄なんてそれが実在するものだということを知らなきゃ見過ごしてしまうだろう。
 あああ、正月早々、無知の知でした。

 帰り道。空を見上げると、指でこすったら消えちゃいそうな、小さな白い半月がうっすらと頭上にあった。

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インチキ手廻しオルガン師。

あけましておめでとうございます。
前回の記事の最後に、つづきはまた明日、みたいなことを書いてましたが、いつの間にやら2009年。失礼いたしました。
今年はこのブログ、もうちょっと気合いれたいな、なんて思っているんですよ、ホントに・・・。

さて、去年からのつづき。

スズキコージライブペインティングで見かけた、わたしの心を激しく揺さぶる人、それはインチキ手廻しオルガン師、オグラでありました。(※敬称略。※※アクセントの位置、注意。「コブラ」とか「ガメラ」と同じノリでお読みください)
というわけで、オグラのこと。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

あの日、2008年12月9日火曜日、スズキコージが巨大キャンバスに絵を描いている間、そして早々に絵を描くのをやめた後も、オグラはステージの前でインチキ手廻しオルガンを廻しながら歌っていた。

 手廻しオルガンてすでに「レトロ」の域だと思うけど、オグラの格好もそれに劣らずレトロで、そしてちょっぴりメルヘンなかわいらしさを湛えていた。オグラの抱える手廻しオルガンが洋服になって生まれ変わったらあんな感じかしら、と思わせる見事なインチキオーラの調和。

 オグラが右手でハンドルを廻すと、オルガンの横からるりるりと長いレシートみたいな白い紙がゆっくり出てくる。インチキ手廻しオルガンのほわんとくぐもった音色が、空気を震わせ、あたりに拡散し充満する。ああ、なんだかノスタルジックな音。

 この日わたしが聴いたのは前半の名曲カバーだけで、オグラのオリジナルは聴けなかったのだけど、このときの歌がなぜかずっと(今でも)ココロの中で鳴り響いている。
 1曲目は「オーシャンゼリゼ」。
 有名な曲だからメロディを聴いてすぐ、ああ知ってる、と思ったけど詩に耳を傾けたのは初めてだ。
 ●率直な感想:軽快で、能天気。
だけど、なぜか嫌いではなくて、家に帰ってからYouTubeで「オーシャンゼリゼ」をまた聴いてしまった。あんまり気に入ったので、図書館でCDも借りてきた。しかし、オグラの歌う「オーシャンゼリゼ」が聴きたい、と思った。
 2曲目は「地球を7回半まわれ」。(たぶん)
 これは知らない歌だったけど、オグラが高度経済成長期の「みんなのうた」と説明していた。
●率直な感想:元気印の能天気。さすが高度経済成長期。
 で、たしか3曲目は「北風小僧の寒太郎」。なつかしい。小学生のとき歌ったなあ。
 その次は、ドアーズ(だったかな?)の曲に自作の詩をつけて歌われていました。もう細かいことは忘れちゃったけど、「いいいじゃん、もう飲みいっちゃおうよ~」て感じの歌。なんだこの詩は!? この人好きかも、と思った。
 最後は「ソシュウ夜曲」。歌う前に、オグラが「2曲目の歌詞がとても美しい」と言っていたので、一所懸命耳を傾ける。家に帰ったらもういちど歌詞を確認してみようと思い、歌の名前を忘れないように何度も口の中で小さく繰り返す。ソシュウ夜曲、ソシュウ夜曲…ソシュウって何だ? 訴愁? 租愁? 「愁」の字は間違いなかろう、と思って家に帰ってネットで検索したら「蘇州夜曲」だとわかる。作詞、西條八十。へー。
 2曲目の詩、たしかにきれいです。おセンチだけども。
  「花を浮かべて 流れる水の
  明日のゆくえは 知らねども
  今宵うつした 二人の姿
  消えて呉れるな いつまでも

 前半の、元気がはちきれそうな歌とは全く趣の異なる、しっとり耽美な少女の世界のような歌。初めて聴いたけど、これもすごく好きになってYouTubeで何度か聴いたあと、図書館で李香蘭のCD借りてくる。でも、なぜか2番の詩がなかった。…。これもやっぱりオグラバージョンで聴きたいな、と思う。

 家に帰ってネットサーフィンしてた頃は、オグラの歌が好きというよりは、オグラの歌の選び方がわたしのツボに入ったのかな…とも思ったんだけど、あのドアーズ(?)の曲につけてた詩は忘れがたく(いや、忘れちゃったんだった…でも、まあ、全体的な印象とかがさあ…)、アマゾンで『オグラBOX3枚組』を購入。CD買うなんて何年ぶりだろう。そして家に届いたCDを聴いて、ぐるぐる、めまい。オグラの音楽といっしょにわたしも廻る、廻る、廻るのだ~~~!!!

 このCDを聴けば聴くほど、あの2008年12月9日火曜日にオグラがカバーした名曲は、カバーだけどやっぱりオグラで、如何ともしがたいほどにオグラであった…とわたしは確信する。

 オグラの歌う世界には「オーシャンゼリゼ」や「地球を7回半まわれ」の能天気さに相通ずるものがあり、根暗でネガティヴなわたしは圧倒されてしまう。そんな楽観的でいいんですかい? とツッコミたくもなるけど、なぜか背を向ける気になれないのは、もう、この歌がぶっとびすぎてるから。こんな風にぶっとばれちゃうと、わたしも愉快になってきちゃう。痛快だ。志村けんのバカ殿コントの中で聞こえてくる笑い声がおかしさを増幅させるのと似ていなくもない。
 でも、オグラの歌は、能天気という言葉だけでは括りきれぬ、なげやり、やけくそ、もうどうにでもなっちまえ、みたいな空気を孕んでいて、北風がぴゅーっと吹きぬけたりもする。

 『ルンルン サイクリング』でオグラは歌う。
 「このまま どっか行っちゃおうかな?」 うんうん、行っちゃおう! そんな気にさせておいて、オグラはこう続ける。
「あっ! しかし チェーンが外れた…」 …マヌケである。一緒になって能天気満開だったわたしは、突然どっか行けなくなり、うなだれる。ぶら~んと虚しくぶら下がるチェーンを見下ろして、世の中の理不尽さと自分の無力さをうっすら感じる。マヌケさの中に真実がある。

 哀愁にくるまれ能天気にため息つくこの人は、自嘲気味に「センチメンタルミュージシャン」とか歌ったりもするけど、そうなんだろうか? うーん、多分ね。

 『Mr.オルガの嘆き』で、オグラは歌の中の嘆きが「みせかけの嘆きなのか、真実のつぶやきなのか」を見極めようと徹底的に自分と向き合う。自分を見つめる自分と、自分に見つめられる自分。あんまり目を凝らしすぎて、ついには2人に分裂する。Mr.オルガの誕生である。
 『Mr.オルガの嘆き』は売れない音楽家、Mr.オルガの嘆きの物語だ。でも曲調は決して暗くない。北風にも負けずに元気よく行進していくイメージだ。「しかしついに彼は嘆き座り込んでしまった」。どうなるんだ、Mr.オルガ!?
 そして歌の途中で長いながいモノローグが入る。3人称の語りであったはずのMr.オルガの物語の中に、突如「私」なる人物が現われる。
 「私」は言う。「みせかけの模造品ではすぐにバレるし、真実のみの排便には誰も近寄りたくないものだ。『みせかけの真実』のようなものだけが、人のココロを揺するのだ、と私は確信した。」わたしも確信しちゃいました、Mr.オルガ。
 わたしは最初、この創作の手の内を曝しているような無防備なモノローグの語り手はオグラだと思っていた。しかし、「私」なる人物は、最期にこう言う。
 「最期に私のスペルを覚えて欲しい、『O, R, U, G, A,』/このあと、私は残照の中に、もうひとりの自分を見ることになるのだ…」「私」とはMr.オルガであったか。
 物語の中にいたMr.オルガが、突然、語り手となって前面に出てくる。これって、映画を見ていたらスクリーンの中の役者が、ふいに演技をやめてスクリーンから飛び出してきて、芝居論をうつような感じじゃないか? 世界の境界線がなんだかよくわからなくなり、わたしは、ぐるぐる、ああ、めまい。

 モノローグが終わると、静寂の中から、また歌がゆっくりと始まる。

  お日様は沈みながら 真っ赤に空を染める
  彼は見た、圧倒的な光のかさぶたを
  眼球を貫通する 圧倒的な美ぼう
  その光のかさぶたから 誰かの声がする…

  Mr.オルガ 軽薄に嘆くのはやめたまえ
  無能な君に出せる光が一色しかないのならば
  Mr.オルガ 始めたまえ さあ、つづきを始めたまえ
  そこよりも前方へ ホコリ高いその靴で! LaLaLa…

 歌のクライマックス、「誰かの声がする…」から「Mr.オルガ」と呼びかけるところ、オグラの歌い方も熱い。「光のかさぶた」から聞こえてくる声なのだ。
 そして「光のかさぶた」は、Mr.オルガの嘆きを「軽薄」と断じ、天才音楽家気取りの彼を「無能」と呼び、しかし、それでもMr.オルガを励ます。彼を前に歩ませるために。

 Mr.オルガの物語を語り、Mr.オルガとなり、また物語の語り手に戻って、最期は「光のかさぶた」である。忙しい9分19秒だ。(すごい大作!)
 前に、この曲の調子は決して暗くない、と書いたけど、そう、だってこれは励ましの歌なのだ。オグラは自分で自分を励ましている。そうでもしなきゃ、やってられないじゃないですか。そして停滞気味のわたしも、この歌を聴いていたらなんだか励まされてしまった。

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