物語の核。
1週間ほど前に「陽炎の辻2」のことを書いて投稿しましたら、アクセス数が急増し、ビックらこきました。ブログのアクセス解析機能が壊れたのかと思ったほどです・・・。
あらためて「陽炎の辻」ファンが大勢いることがわかり、ちょっと複雑な気分になり、そして、このブログにたどりついた人の「チッ」という舌打ちが聞こえるような気がして、ひやひや、どきどき、恐ろしく、申し訳ない気持ちになりました。
ブログのトップページにも検索フレーズランキングが出るようになってしまいました。ご覧のとおり、1位「陽炎の辻」、2位「山本耕史」、3位「耕史」・・・あら? 変わってますね。3位は「陽炎の辻2」になったようです。
かく言うわたしも、ネットで「陽炎の辻」を検索したことがあります。NHKの土曜時代劇のホームページで壁紙もダウンロードしちゃいました。写真館ものぞいちゃいました。(個人的にはもっと殺陣のシーンの写真を入れてほしかった・・・)
ダウンロードした壁紙は、しかし、あまりにも磐音がカッコ良すぎて、「こんなの見てたらリアルな世界を生きていけなくなってしまうワ」とヘンに恐ろしくなってしまって、1~2分後には別のものに変えてしまいました。 アホやねん。
「陽炎の辻」ファンの存在に気づいて複雑な気持ちになったのはなぜだろう・・・? としばらく考えていて、はたと気づいたことがあります。
まったくバカバカしい話ではありますが、わたしはこのドラマの、特に最終回は、とても「個人的」に見てしまっていたのです。自分の経験を織り交ぜて、まるで自分のストーリーのように受けとめて見ていた、ということです。だから、わたしの目は磐音を見ていたのだけど、そこには自分自身が重なって映っていて、一体わたしは何を見ていたの? という感じですが、でも、見ていた瞬間は本当にそうでした。
一応、ブログには他人とも共有できる(と思われる)、裏の赤い着物のカッコよさについて書いていましたが、「陽炎の辻2」の最終回はわたしだけのもののように錯覚していた部分もありました。
そんなわけで「陽炎の辻」という検索ワードを手がかりに、こんなにたくさんの人がこのブログに漂着したことに戸惑いを感じてしまったわけです。
ドラマに限らず、小説などのストーリーを追うというのは、その登場人物の人生を共に生きることなのですが、ストーリーを追っている「わたし」が存在する以上、自分の過去の体験や感情その他もろもろが自分でも気づかぬうちにストーリーの横糸として織り込まれていき、厳密に言うと、辿っているストーリーは一人一人、違うものではあるのでしょう。
ただ、人は生きていれば誰しも出会いや別れを繰り返すことになるのが自然で、そういう普遍的な人生の側面があるからこそ、このように自分自身を他者の人生に織り込んでいくことができるのだと思います。
他人を理解するなんてさらさら不可能なことではありますが、それでも人は何とか理解しようと歩み寄ろうともします。どのようにして歩み寄るかといえば、しかし、結局のところ、人にできることは、自分自身の人生を振りかえって、ごそごそと手探りすることでしかないのでした。
物語の核って、実はすごく普遍的なものだったのか・・・とか思ったのでした。
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